19歳の少年が4人を射殺。
裁判ではカネ欲しさ故の犯行とされたが、
彼は幼少より家族友人、親戚からも虐待、ネグレストを受け
全く救いの手がなかった人生を歩んできた。
いつも何かに脅え、傷つき、逃げてばかりいる弱々しい少年だった。
後にカウンセリングにより初めて人間らしさを手に入れ、自分の生い立ちを
モデルに本を書き、獄中結婚、喧嘩腰だった裁判にも冷静に取り組むようになる。
印税が入るたびに憎んでいた家族や被害者遺族の元へ送り続けていた。
死刑確定後も一人独房で小説を書き続けた。
以下はDAYS JAPAN 1月号より抜粋
2012年の最高裁司法研究所の報告によると、近年、死刑判決の数は
凶悪事件が頻発した戦後直後並みに急増し、日本の司法は今、厳罰化の只中にある。
かたや最近の「犯罪白書」によれば、国内の犯罪認知件数は年々減少し、
私たちは今、戦後最も安全な社会に暮らしている。
平和な国に吹き荒れる厳罰化の嵐。
奇妙なパラドックスの背景には何があるのか?
ひとたび事件が起きればマスコミは扇情的な報道で恐怖や被害感情を煽り
本質的な洞察を深めようとしない。
そんな報道に煽られてか市民の体感治安は悪化し、街には監視カメラが溢れ
悪人は殺してしまえと応報的な刑罰への支持が叫ばれる。
生き残り戦争に殺伐とした空気が満ち、隣人を疑い、人間同士の信頼は揺らいでいる。
永山少年を事件へと向かわせたのは、貧しさではなかった。
そこにあったのは両親、家族、兄弟、友人、教師、そして福祉というあらゆる人間や
事象との関係性の貧困である。
追いつめられた少年は自分に向け続けた刃を最後に他者へと向けた。
司法は、その不都合な真実に向き合うこともなく、一人の人間の更生を 償いの芽を
死刑という刑罰で断ち切った。
そして社会は、悲劇を自己責任で片付け、忘れ去り、そこから教訓を何一つ
学び取らなかった。
いつしかこの国は、日に80人以上もの市民が自らの命を絶つ、世界でも稀な
自殺大国となり、有効な対策を打てないでいる。
日本社会は今も少年が抱えた心の闇に目をつぶり、同じ痛みを呻吟し続けている。